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『私のフィールドワーク』  吉國 元

 

 ジンバブウェの幼稚園に通っていた時、僕は遊び場でつまづき派手にコケてしまった。半ズボンだったから、膝がすり剥け血が出ている。駆け寄ってきた友人はその場でアフリカのさらさらとした赤土を手に掬い、「これが傷に効くんだよ」とその土を傷口に擦り込んだ。僕は幼心にもそんなことはありえないと思う。でも彼に身を任せ、それを信じるフリをした。僕という器の中から友人の指の動きを見ているような気がした。血は土と混ざり合い、やがてそれは太陽が焼いたようなカサブタとなった。

 例えばある特定の場面の雰囲気や手触りを描くとする。僕は必ずしも情景そのものを視覚的に再現して描く必要はないかも知れないと思う。

 絶えず蘇るようなその一場面の肌触りや匂いは、むしろ全く別のシーンやポートレートを描いた時に顕れ、いつの間にその画面に定着しているからだ。

 それは絵が完成し時間が経ってからふと気付く事がらで、そのような意味で、僕が描いた肉屋の店頭で吊るされている山羊とナイフを持つ黒い腕や、親指ピアノの演奏者エファト・ムジュル氏の小さな帽子や、頬杖をつく家政婦さんの遠い眼差しは、それそのものの記録であると共に、また別の、ジンバブウェで経験した何かの確かな片鱗なのかもしれない。僕は1986年に首都ハラレに生まれ、8歳ごろから絵を描き始めていた。昔も今も、つまり1996年に日本へと移住した後も、僕は「あの場所」で出会った人々を描いている。

 フィールドワークという言葉から、僕は両親を想起する。

 父の姿が見える。陽は高く、乾いた風がかすかに木々を揺らしてる、その雄大なジンバブウェの風景を父は横切っていく。バイク事故により大きなケガをし、足を引きづり杖をついている彼は、草木が生い茂る石だらけ遺跡を歩き、現地ガイドの話に半ば耳を傾け、スケッチを描いている。

 一方母は、子供二人をアフリカで育てるせわしない生活の合間に、ジンバブウェの普通の人びとを取材している。家に出入りしていた学生時代の友人や、看護師、庭師、家政婦さんの話。アイロンをかけたハンカチのような、慎ましくも折り目正しい人々の生活と日常の細やかなディテールが、母の文体とイラストで描かれる。

 僕にとってジンバブウェを問うことの半分には、家族と僕自身を問うことでもあった。何故この両親の元でアフリカで生まれたのだろう?

 黒髪で黄色がかった肌をした僕は、当然白人でも黒人でもない。独立したとはいえ、白と黒はこの国では侵略や搾取の、暴力的な植民地支配の歴史を背景に孕んでいる。その中で、僕は中立ですらなく、ほとんど透明な存在のように自分自身を思い込んでいた。

 ところが現在、まさにそのような自分こそ、否応なく政治的な存在であったと思い返すようになった。

コロニーに関する歴史を紐解くまでもなく、現代の日本で成人として生きる事は、歴史や社会構造の中で何らかの搾取や支配、暴力と関わっている。

 さらに僕自身の立場、とりわけアフリカ人を描く事に関しては、描き表象する側と描かれる側にある非対称的な力関係にも気づかされる。

 「ある特定の場所で感じた雰囲気や手触り」は遠い国の出来事だけではない。それは現在足元で起こっている事でもあり、その場所は現代日本とも関係している。戦争、コロニアル、ポストコロニアル、レイシズムやマイノリティー。観念やタームとしてではなく、その言葉を実際に経験し生きた人々の声は意外にも、無意識のうちに捨象しがちであるように思える。まだ始まったばかりの僕にとってのフィールドワークとは、そのような声に出会う事ではあるまいか。父の死、そして生まれた場所の独立を導いたムガベ大統領の失脚、2018年の夏に個展「アフリカ都市経験:1981年植民地以降のジンバブウェ・ハラレの物語』を開催し、より強く思うようになった。ジンバブウェを訪れる必要がある。僕自身の記憶としてではなく、今度こそ僕の知らない他者としてのジンバブウェに会いに行かなきゃと思うようになった。

FENICS メルマガ Vol.50 2018/9/25  50回達成記念号に寄稿

https://fenics.jpn.org/mailmagazine/vol-50-2018-9-25/?fbclid=IwAR1x-Fw9quJdPWZNWIq915CmQUcw5s8bC5uk6knt11L22BzQL8ioolM1Rj4

『リフレクション』(2013年)

     

 二十歳、夜はいつも制作をしていました。昼間のビルメンテナンスの仕事を終え、帰宅してからシャワーを浴び、イーゼルにむかう事が私の日課でした。絵を描いていくということはずっと前から決めていましたが、高校を卒業後、美術大学へは進学しませんでした。 経済的事情もありましたが、受験対策のために絵を描くということに違和感があったからです。絵というものは予備校や大学のシステムの流れのなかではなく、もっと別の場所で 生まれるのではないか。そして何より私は私のペースで絵画というものに向き合いたいと 思っていたからです。進学する代わりに私は家を出、ワンルームの部屋でひとり暮らしを始め、美術大学とは正反対の場所でどのようにして表現が生まれるのかを考えてみたいと思いました。

 ビルメンテナンスとはマンションや公共施設、学校や病院の外壁や窓、共用部分の廊下を清掃する仕事で、作業員は早朝に事務所のある場所に集合し、割り振られた班に分かれ、 清掃道具を積んだ作業車のハイエースでそれぞれの現場に向かうことになっていました。

 格差社会という言葉が浸透し始めた頃で、作業員にとっては、まるで異国のような高級 マンションや施設に、毎日清掃をしにいくような状況でした。最上階から下の階に向かって作業を進め、日が暮れる頃には、エントランスを仕上げ、汚れた作業衣の私達は会社の砂利だらけの駐車場に戻るのでした。現場で見かける、手をひかれた良い洋服を着た子供達は、どのように私達作業員を見ていたのでしょうか。

 高校時代の友人とは全く違う、生まれも育ちも様々な人たちの中で、絵を描く私は物珍しい、「絵描きさん」でした。来る日も来る日も、発表する当てのない絵を描き続ける私の日々は、地に足をつけ、流した汗で得た賃金がそのまま家計の糧となる同僚や仲間達にとって、優雅でのんきに見えていたのかもしれません。頭の中は絵の事でいっぱいでしたので、口を開けばそのことばかり喋っていました。しかし彼らにとっての関心事は絵の内容ではなく、絵で食えるのか? ということした。

 表現するという事が、結局のところ同僚や仲間達にとって、よそ事なのではないか。世の中には、喉の渇きのような「表現」への欲求が無くとも、生きていける人々が、居るの ではないかと思うようになりました。そして残念ながら文化というものは、昼間に見たあの子供達の手の中に、より多くあるように感じられました。私に出来ることはただ自分のまわりにいる彼らを、じっと観察することでした。

 そして観察すればする程、全員ではないにしても、ある一面でよっぽど同僚や仲間達のほうが、「表現」というものに長けているのではないかと思うようになりました。私が良い役をふられなかった役者のようにぎこちなく、そぐわない感じで社会に生きていたのに対し、彼らは生き生きと、それぞれの人生を生きているように見えました。「表現」 とは人間の各個人の中に眠る、そのひとにしかない、核となるような宝が発露されることで、それはふとした瞬間に、あまりに自然に日常生活の中で燦めくので、多くの人はそれにただ気付いていないだけではないかと思うようになりました。固く結ばれていたものがほど解けるように、だんだんと私なりの表現に対する考えが変わっていきました。

 父と同じ年齢の、初老のある人物は、ケーキ屋さんの雇われ店長として勤め上げた後、独立して店を開きますが失敗し、その後、私と同じ清掃業に就くことになりました。叶わなかった夢をもつフラストレーションを晴らすためか、短気な彼は必要以上に怒鳴りちらし、そのため周囲から恐れられる存在でした。些細なことで正に鬼のような形相になるのですが、その同じ人が行く先々の駐車場や、庭の隅に咲く花々を自宅の庭に移し替え、 育てていました。そして昼休みには何時も景色の良い、春ならば桜の下に作業車を移動し てくれ、そこで一緒に昼食をとりました。彼は自身を何もやり遂げなかった人間とこぼし ていましたが、くたくたになる一日の作業を終え、車中から見える夕日はどのように彼の目に映ったのでしょうか。自宅に帰り着く頃、街灯の下で見る野花の花畑はきっと美しく 愛おしく見えたに違いありません。

 口の悪い別の人物は、実家が中華料理店を営む逞しい中年男性で、彼の父は従業員を罵っていたらしく、本人は口の悪さを父のせいにしていました。その人はかつて大病を患った ため健康には気を遣い、昼食はそばばかり食べ、仕事の後はブラジル柔術の道場に通って いました。本人曰く、長年の肉体労働で備わった筋肉のほうが、ジムで作り上げる筋肉よりも質が良いとのことでした。事実、地方大会では優勝するくらいの強さを誇っており、「対戦する相手はガチガチなのに、俺全然緊張しねぇんだよな」と彼が言っていたのが印象的でした。しかしそれ以上に忘れられないのは見せてもらった携帯の写真でした。ゆったりとしたパーカーの首元から金メダルを下げ、日焼けした顔をまだ幼い息子にいじられながらも彼は照れくさそうに笑っていました。戦い終えた安堵感はかわいい息子さんをやわらかく 包みこんでいるようでした。

 その彼の奥さんは韓国人と日本人との間の、いわゆるハーフで、彼はある時、「ハーフと はどちらの人種でもないから、どちら側の人々からも、よそ者扱いされるのだ」と漏らしたことがあります。

 絵を描く人に立場や役割があるのでしょうか? 国や人種に限らず、異なって見える両極のもの、例えば人工と自然、正義と悪、死と生、男性と女性、抽象と具象、様々なもの があります。そのどちらにも傾かないことが絵を描く人の役割ではないのでしょうか。時に二つの世界を結びつけ、時に二つの世界に引き裂かれること、そのような中間的な場所で表現は生まれようとしています。この事を思う度に、私は見たことのない同僚の奥さんのことを思い浮かべるようになりました。

 誰もが物語の作り手であり、主人公でした。彼らの物語はとても豊かな、生き生きと「表 現」されたものとして私を魅了しました。同時に誰もが誰かの物語の登場人物である事に 気付かされます。そのような意味でも「表現」とは異なる人々を、人と世界を、結びつけ るものなのかもしれません。では私にとっての私にしかない表現とは何だったのでしょうか?

 その夜、私はある人物を描いていました。緑色の作業着を着た、額の中央で髪を分けた、浅黒く太ったその男は、抜けた前歯にタバコをくわえ、立ちのぼる煙のむこうから、こち らをギョロッと睨んでいました。彼は数日前にトラブルを起こし、職場から居なくなって しまった人物で、せめて絵という形でその独特の風貌と、彼に対する記憶を描きとめてお こうと思いたったのです。

 何度もドローイングを重ね、それを壁に貼り、数日間は掃除をしていない乱雑に散らばった部屋の中央にイーゼルをたて、私は昼間の作業衣の使い古した上下を着て作業をしていました。寒い冬の一夜のことでした。床のフローリングは冷え、私は部屋の中でさえ靴下を二重に穿き、マフラーをまき、吐く息は白くさえなっていた気がします。夜が更ける程に冷えるその一室で、記憶を頼りに、彼との距離を縮めるように絵を描いていましたが、 なかなか上手くいきませんでした。居なくなってしまった彼を何とかキャンヴァスの上に定着させはできないだろうか。制作は難航し、彼の何かを捉えたと思った瞬間、別の何かが逃れていきました。何時もは音楽をかけながら制作をするのですが、その夜は音楽がとっくに終わったのにも気づかず、次の一筆が流れを変えると信じて、逃れたものを追うようにして、筆を動かし続けていました。

 徐々に集中すると私と対象の距離は曖昧になります。その時は絵という平面にむかっているのか、居なくなってしまった彼と対面しているのかが解らなくなってしまいました。 疲れているのに集中したせいか、意識はショートし、ある考えに囚われました。素材を突き破り、距離を飛び越え、彼とコミット出来るかもしれない。しかしそのような思いにとらわれた次の瞬間、描いた彼と実際の彼が乖離し始め、絵は目前にあるのに、彼の存在そのものが急に私から遠のいた気がしたのです。その時です、高速のエレベーターが急に私と地上を引き離す時に感じる、あの独特の感覚が身体全体を突き抜けました。それはぞっとする出来事でした。

 対象に突き放されたことに私は呆然とするしかなく、何故だか、静かに夜が更ける真夜 中の一室で、彼によって全世界との繋がりを失った感覚に包まれました。大切にしていたも のを一瞬の突風によって根こそぎ持っていかれたような感覚。絵を描いている、この一室が宇宙に放たれたカプセルのように何もない空間をあてもなく彷徨っているように感じられました。もう数時間したら、出勤しなければなりません。早く電車に乗り、いつものように出勤する人々の姿を目の前で見たいと思いました。ぬくもりのある生きた人間の世界 がちゃんと私と地続きにある事を確かめたかったのです。

 彼の肖像は失敗に終わり、その一枚を境に絵画と世界に対する見方がすっかり変わってしまいました。作業車から見える世界。登校する女子高生やサラリーマンの姿、それを見 送る若い母とまだ幼い子供。何がなんでも私は私であり、彼らではないという動かしようもない事実。向こう側に見える世界に対して、私はどのような関係を結べるのでしょうか。対象と私の間にある距離。距離があるからこそ見えるもの。

 窓の内側から見える庭のみどりが、時にどのような大自然に囲まれるよりもハッと心に響くのに似て、距離というものは私と対象を隔てつつも繋げるものとしてありました。ガラス越しに木々は音もなく揺れ、 揺れる光は室内を照らします。私は世界に向かって手を伸ばさずにはいられません。

 いかに世界に触れ、いかに世界を見るか、それが表現というものだと思うようになりました。

 何故私は絵を描き始めたのでしょうか? そればかりに没頭するような子供ではありませんでしたし、名画に触れるような経験もありませんでした。それでも手探りで触れた最初のものにその後に通じる何かがあるに違いありません。

 私はアフリカのジンバブエという国で生まれました。その場所は南アフリカの真北に位置し、四方を陸で囲まれた海のない土地です。父はアメリカ留学時にアフリカ史を専攻し、博士課程にジンバブエの大学を選びました。父がその地を踏んだ時、それはちょうどジンバブエが長い植民地時代を潜り抜けやっと独立した一年後のことでした。その翌年に母が合流し、1986 年に私は生まれました。私は母の背中に鮮やかな布で縛られ、記憶にある最初に住んだ家は庭が二つありました。

 私は現地の学校に通いました。様々な肌の色の子ども達が一緒に学び、遊びました。その頃から絵を描くことが好きでした。象の親子を上空から描いた鉛筆の絵は校内雑誌の1 ページとして刷られ、私はそれを誇らしく記憶しています。

 楽しい時代でしたが、一年生の時、上級生を担任する先生が自殺しました。学校側はそれを事故だと発表しましたが、友人はその真相を知っていました。先生は自家用車にガスを引き込んだらしいのです。肩を寄せ、声を上げて泣く上級生達。ブロンドの髪と水色の制服。 アフリカの陽光が照らすその景色に、私は見とれてしまいました。目前の事が遠い昔の出来事のように感じ、風景は私から切り離された一場面のようでした。あの人達が全身で表現し共有する感情を私はまだ知らない。人間はこのような時、あのように感じ、泣かなければいけない。私はそう思いました。

 その一方、私は見てもいない先生の死にゆく場面を見てしまったかのように記憶しています。ガスが漏れてしまわないように、外へ通じる隙間という隙間をテープで埋めていく白人男性の姿は切実であり、どこか滑稽でもありました。人気のない午後の事。木々の影が 車体のガラスに映りこんでいました。

 絵を描くために私は二つ場所に通っていました。ピーターとヘレンの所です。

 ピーターは私が通っていた、お絵かき教室の先生でした。彼は私達兄妹を可愛がり、色々 なお土産をくれました。

 アトリエの外には庭があり、木々の茂る暗がりには大きな蜂の巣がありました。休憩時間に子ども達はその庭で遊ぶのですが、私は蜂の巣が気になって仕方がありませんでした。 手の届かないところで僅かに聞こえるブゥゥンの音。蜂達はせわしなく巣の周りを飛んで います。毎週、毎週、休憩時間にそれを見に行きました。小石を投げてみます。蜂達はいつものように低い音で唸っていました。そこで次の週、私はより大きな石を投げることにしました。

 重い石の手触りを確かめながら、それをしてしまったなら大変な事になるだろうと子供ながらに私は解っていました。私は後悔するに違いない・・・。石は命中し、庭は大惨事となりました。叫び声が聞こえ、走って逃げる子ども達が見えました。

 私はピーターや母親達の顔を見ることが出来ませんでした。後に知ることとなるのですが、蜂はその針を一回刺すと死んでしまうといいます。たくさんの死骸がその庭に残っていたはずです。それなのに、私は今でも生きています。

 ヘレンはギャラリーのオーナーでした。建物は半円形のコロッセウムと庭に囲まれ、その場所は絵を描きたい学生や大人のために解放されていました。休憩時間にはコーヒーが 出されましたが、子ども達にはジュースと決まっていました。

 ヘレン自身も絵を描く人物でした。いつもタバコをふかし、鋭い眼で周囲を見ていたヘレン。癖のある長い髪はギャラリーで飼っていた犬の毛並みとそっくりで、指にはきつそうに沢山の指輪が鈍く光っていました。彼女はしょっちゅう悪態をつき、私は学校の先生が使わないであろうたくさんの悪い言葉を覚えました。

 私はこの場所で絵を描く意味を知りました。私は絵が好きです。もの珍しい日本人であり、まだ子どもであった私ですが、絵を描く時にだけ大人たちと対等でいられました。私は陽だまりの中、寝てばかりいる犬を描き、鉢植えの植物を描き、モデルとなって頬杖を着く家政婦さんを描きました。

 

 世界を見つめ、手を動かし、我を忘れる。

 

 それは自由の片鱗に触れることでした。この感覚を存分に味わいたい。居場所を見つけたというよりも、居場所に拘ることすら忘れるような感覚です。

  日本に来てからも同様なことがいえます。私は十歳の時に帰国しました。十歳を境に世界が変わりました。私は器用にも新たな場所に適応しましたが、目に見える事物は何時まで もよそよそしかったのです。この居場所が一時的なものであり仮のものである、私はそのように感じ続けていました。しかし、それがどうしたというのでしょう。

 ジンバブエで私が初めて死に接した時、蜂の巣をめがけ石を投げた瞬間、私はどうしようもなく一人でした。それは生まれる前から知っていたような懐かしい孤独でした。 その感触は同時に自由というものの手触りにも似ていました。だから思うのです。何処にいようとも、世界は私のものではないから私は絵を描くのです。解決ではなく一瞬でも我を忘れるために私は絵を描くのです。やはりそれは自由の片鱗に触れるようなことでした。

 ヘレンは端的に私の絵を褒めてくれました。日本に帰らなければいけないから、これで 最後という日、私は着ていたシャツに皆からのメッセージを書いてもらいました。ヘレン のものは「Be a great artist!」というものでした。

 現在、私の知っているジンバブエはもうありません。あの学校もギャラリーも、住んで いた家も今はないでしょう。独立を成し遂げたムガベ大統領は独裁者と呼ばれるようにな り、記憶に登場する人物の何人かはこの世にいないのかもしれません。日本に来てから聞 くジンバブエのニュースは私を悲しくさせます。様々な光 と影が揺らいで見えます。今ではバイク事故により大怪我をし、杖をつき足を引きずる父の姿がアフリカの風景の中、見えるようになりました。

 出会った人物、出会った風景は私の一部となり、今では彼らこそ外界に投影された私自身の姿ではないかとも思います。過去は片付いたとは思えず、回顧されるものでもありません。私はこれからもっと積極的に、現在のジンバブエと関わらなければ未来に進めないのではないかと感じるようになりました。

​(後略)

『Lost and Found Vol.1-同時代とアートを切り結ぶ。-』

出版:2013年5月10日 

発行元:人間学工房刊

編集・制作:中村寛、平山みな美、大沼彩子、吉國元

協力:多摩美術大学

 

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